1. 垣内宣子《セザンヌのアトリエ(エクス・アン・プロヴァンス)》

    ごあいさつ

  2. 垣内宣子《バルト海クルーズ》

    略歴

  3. 社会貢献活動

  4. 出版物

生い立ちと女子美術大学について

佃:お母さまが鎌倉彫の作家でいらっしゃったと聞いて驚きました。やはり芸術家の血筋なのですね。

垣内:そうかもしれません。娘も多摩美の美術学部芸術学科の大学院を卒業しました。母は洋裁、和裁、華道などなんでも器用にこなす人で、料理も得意でした。そういう点は私も同じですので、つくることが大好きという性質は母から引き継いでいると思います。
私は絵を描くことが小学校の3、4年生の頃から好きで、学校でコンクールなどに出品されると、いつも入賞し、絵の具などのご褒美をいただきました。その後入学した地元の公立中学校の美術の先生が藝大出のとても良い先生でしたので、美術部に入部し、その先生から油絵を教わっていました。高校に入学したころには、「将来は美大に進学する」という目標が既に定まっていたので、学芸大学にあった研究所に3年間通って木炭デッサンや油絵の勉強を続けました。

佃:垣内さんは女子美術大学で学ばれたそうですね。

垣内:はい、女子美の芸術学部洋画科です。女子美の他に多摩美術大学と武蔵野美術大学も受験して全て合格したのですが、女子美に進学することにしました。

佃:当時の女子美はどのような雰囲気だったのでしょう?

垣内:明るくて自由。個性的なファッションの方もいて、伸び伸び学べる美大でした。

佃:教授陣に関しては、いかがでした?

垣内:すてきな先生方が多くいらっしゃいました。洋画家ではまず森田元子先生。色白でスタイルが良くて美人、ショートカットの銀髪に前の部分はパープルカラー。常にヒールを履き、凛としていました。また、その後女子美の学長になられた佐野ぬい先生、穏やかな原光子先生、佐々木四郎先生、後に女子美付属高等学校・中学校長になられた丸橋(継岡)リツ先生、吉江麗子先生、山本久美子先生といった先生方です。日本画は、ダイナミックな片岡球子先生、三谷十糸子先生、後藤芳仙先生、それからインダストリアル・デザイナーの柳宗理先生など多くのエネルギッシュな先生方が教鞭を執られていました。おかげさまで洋画専攻にもかかわらず、日本画でも良い成績を収めることができました。片岡先生からも「日本画をやれば?」と勧められるなど、ずいぶんかわいがっていただきました。

画家・垣内宣子

ヨーロッパの風景をメインテーマとして

佃:垣内宣子さんといえばヨーロッパの風景画がすぐに思い浮かびますが、初めてヨーロッパへ取材に行かれたのはいつですか?

垣内:女子美卒業後の1966年、日欧文化交流の交換学生として、ヨーロッパを訪れたのが最初です。海外渡航が自由化される前で1ドル360円の時代でした。当時としては珍しく飛行機で羽田からアンカレッジ、北極圏経由でヨーロッパに行きました。

佃:僕もそのころドイツに行きましたが、シベリア鉄道で行きましたよ。飛行機で行くのはかなり珍しいことですね。ヨーロッパでは、どういったことをされていたのですか?

垣内:約2カ月間かけてヨーロッパ8カ国の美術館、博物館、大学などを巡り、文化交流をしました。約8000kmの旅です。その旅行については、旅に参加した仲間たちで協力し、『Europe 8000キロの旅』(出版:株式会社文唱堂、写真p.190)という旅行記にまとめて出版しました。私は装幀画の制作と編集を担当しました。あの頃の美術館は本当に人が少なく、静かな空間が保たれていました。ルーヴルの《モナ・リザ》も今とは異なり、近くで自由にゆっくり鑑賞できました。また、日本の「木の文化」と対照的なヨーロッパの「石の文化」に感銘を受けました。何百年もの時を刻んだ街並みがそのまま残り、現在もそれを使っているという事実、その歴史に裏打ちされた文化の厚さに圧倒されました。

左:編集と装幀画を担当し出版した『Europe 8000キロの旅』、中央:ルーヴル美術館で《モナ・リザ》と、右:パリ・コンコルド広場にて

佃:確かに我々の文化とは異なりますね。ウィーン滞在中、家のすぐ前の公園で毎日、職人がれんがを積むような建築作業をしていました。私は「何をノロノロやっているのだろう」と思っていたのですが、彼らは急ぐことなく作業を続け、いつの間にかとてもしっかりした構築的な建物が完成していました。同様にヨーロッパ人は考え方も大変構築的です。そして一度つくったものは、ずっと長く守っていこうとします。先日、あるヨーロッパ人に「日本人が最先端の方向へ向かいたがるのは、古いものをどんどん壊していくからだ」と指摘されました。それは「木の文化」であることと関係があるのかもしれませんね。木は石に比べると長持ちしませんから。

垣内:ヨーロッパは町の「色」も日本と全然違いますね。

佃:赤い屋根を作品の中で、たくさん描いていますね。僕も初めてヨーロッパへ行ったとき、赤い屋根がなんて美しいのだろうと大変魅力的に感じました。

垣内:同じ赤い屋根でも、時を重ねたものは、素晴らしく良い色を出します。この作品《木もれ陽》は、マヨルカ島のさりげない風景を切り取った絵なのですが、木漏れ日があまりにもきれいでしたので描いてみました。

佃:この木漏れ日も、地面ではなくて石畳の上に差し込んでいるのですね。しかも、その石畳が所々摩滅していて、なんとも言えない歴史を感じさせます。

《木もれ陽(マヨルカ島)》

垣内:石の建物は魅力的で飽きません。日本国内も各地を旅しましたが、油絵にするなら「石の文化」であるヨーロッパの方が絶対に合うということを学生時代から感じていました。以来、絵画制作のテーマは「ヨーロッパの風景」ということで一貫しています。今日まで50年以上、ヨーロッパ各地を取材しながら、制作を続けることができた自分の環境にも感謝しています。

佃:そのヨーロッパ各地の風景ですが、国によってどんな違いがありますか?

垣内:色彩に関して言えば、北欧は全体に暗い色彩、南欧は明るい色彩です。
私はカラフルな南ヨーロッパに惹かれます。2017年に訪れた南イタリアのプローチダ島などは小さな漁村の島ですが、家々がとてもカラフルに塗装されていました。ピンクの家があったかと思うと、隣家は白や青、赤で塗られていたり。それでも不思議と島全体の色のバランスが取れているのです。

大調和会の運営と後進の育成について

佃:運営委員を務めていらっしゃる大調和会には第4回から出品されていますね。

垣内:女子美にいらした後藤芳仙先生に誘われて出品するようになりました。

佃:大調和会は漠然と仲間が集まってつくられた団体とは違い、創始者の武者小路実篤のコンセプト(人間を愛し、個の全てを生かす調和の世界を理想とした)がはっきりしていて、他の団体とは一線を画していますね。このコンセプトはきちんと守っていかなければいけないですね。

垣内:そうですね。会のコンセプトは守っていきたいと思っています。現在、若い人に積極的に参加してもらう狙いで、高校生から25歳までは無料で今年も約60名ほど出品していただきました。また、大調和会の熊倉先生と軍司先生のお力添えをいただき、モンゴルの学生さんたち25名にも、モンゴル大使館後援のもと、出品していただいています。(2017年第56回大調和展開催時の情報です)

佃:垣内さんには大調和会発展のために、大いに活躍していただくよう期待しています。

垣内:私も元気なうちは、若い人たちと会のために全力で努力したいと思っています。また、私は地元・川崎市中原区を中心に、神奈川県内の学校や病院、役所といった公共の場所に作品を寄贈し続けてきました。その活動の根底には、市民が身近に芸術文化に親しむことができる環境づくりに貢献したいという思いがあります。これからは、やはり画家として少しでも良い作品が制作できるよう精進しつつ、こうした活動を継続していきたいと思っています。

美術評論家・佃 堅輔 Photo by Hirona Fujita

(2018年発行『ONBEAT vol.08』の掲載文に加筆し掲載)